【瑠璃光寺】
文明3年(1471)陶弘房の夫人が夫の菩提をとむらうために、現在の山口市仁保高野に創建した寺で、はじめ安養寺といっていたが、明応元年(1492)に瑠璃光寺と改められました。
この地にあった香積寺は、慶長9年(1604)に萩に移され、その後にこの瑠璃光寺が元禄3年(1690)に仁保から移り来たものです。
曹洞宗で山号を保寧山といい、薬師如来が本尊です。
防長屈指の大寺で、経文や画像など多くの寺宝が所蔵されています。
国宝の五重塔は香積寺の遺構です。
池に映る五重塔を撮りたかったですが、工事中でした><
頂いた御朱印↓
スポンサーサイト
テーマ:日記というか、雑記というか… - ジャンル:日記
2018/05/11(金) 23:59:12 |
山口
| トラックバック:0
| コメント:0
【大歳神社】
寿永四年(1185年)、平家追討の任務を負うた源義経は、武運の守護神と仰ぐ富士浅間神社(源氏の御祖と仰ぐ清和天皇を合祀)の御氏神、大歳御祖大神の神助を請い、平家が布陣を整える彦島を望む有明山(大歳山・円山)に小松(富士の小松)を植え、篝火を焚き、二日二夜の斎戒沐浴をして戦捷祈願をこめました。
その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛率いる平家軍に開戦の矢文を射込みました。
驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦に軍船を進め一戦を挑んだが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、敢え無く滅亡したと云います。
翌年の文治二年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬して、神祠を祀ったことから大歳神社の由緒とされています。
爾来、武運長久の神としての神威は光輝を益し、文久三年(1863年)、維新回天の大業に蜂起した奇兵隊は氏子・白石正一郎宅にて、高杉晋作の唱導により結成され、奇兵隊旗揚げの軍旗は大歳神社に奉納されました。
折しも四国連合艦隊との交戦のさ中、正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納しました。(現鳥居)
古代社会から貴族社会、そして武家社会から近代への変遷を通じ、大歳神社の御神徳がその時々に顕現されてきたことは、広く市民の周知するところでした。
殊に正月は、『お年玉』の由縁にちなむ大歳神社のご加護をもとめる人達の祈願で賑わっています。
テーマ:日記というか、雑記というか… - ジャンル:日記
2018/05/10(木) 23:23:59 |
山口
| トラックバック:0
| コメント:0
【赤間神宮】
<情報>
赤間神宮は元々、阿弥陀寺というお寺で、壇ノ浦の戦いや、耳なし芳一の舞台として知られています。
赤間神宮の境内には、平家一門の墓もあり、歴史好きにも大人気のスポットです。
祀っているのは、壇ノ浦の戦いで入水し、幼くして亡くなった安徳天皇です。
ご利益は「水」に関係するものが多くあるのが特徴的です。
<歴史>
貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢しました。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させました。
以後、勅願寺として崇敬を受けていました。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称しました。
また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定されました。
天皇社は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し赤間神宮に改称しました。
第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工しました。
<先帝祭>
5月2日に参拝しましたが、翌日に「しものせき海峡まつり」のメイン行事である先帝祭があるとの情報および宿泊が赤間神宮の近くであったので、少し覗いてきました。
豪華な衣装をまとった太夫5人や官女ら、神事の奉仕者は上臈道中で市内を練り歩いた後、安徳天皇を慰霊するため赤間神宮へ来ました。
境内では、水天門から本殿に架けられた朱色の天橋で太夫が足を八の字に踏み出す「外八文字」を披露しました。
尚、海上パレードの源平船合戦は高波の為中止になったようです。
5/2
5/3
テーマ:日記というか、雑記というか… - ジャンル:日記
2018/05/09(水) 18:03:11 |
山口
| トラックバック:0
| コメント:2
【亀山八幡宮】
亀山八幡宮は、下関市の中心地に祀られています。
御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇です。
平安時代・貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されました。
「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている亀山八幡宮がある地は、古くは島でありました。
平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。
その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。
暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。(享保年間「防長社寺由来」記載)
「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれています。
室町時代に明と貿易が始まると、遣明船は太刀を奉納し航海安全を祈願しました。
戦国時代、国内はもとより当藩も疲弊し神社も荒廃していましたが、藩主大内義興は永正3年(1506)に朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、その財でもって社殿・楼門等が修築されました。
当時朝鮮と交易していたとはいえ海外に寄進を仰いだことは稀有なことであります。
次の藩主義隆も神社の興隆に力を注ぎ神領550石を寄進され、次いで毛利藩主も300石を献じ能舞台等を建立しました。
元禄15年(1702)には「長門国三社」と号されています。
江戸末期の文久3年(1863)に藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867)に国難去ったとして剣馬を寄進されました。
このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬・庇護が篤いお社であります。
テーマ:日記というか、雑記というか… - ジャンル:日記
2018/05/08(火) 23:43:01 |
山口
| トラックバック:0
| コメント:0
【山口大神宮】
伊勢神宮の御分霊を勧請してできた山口大神宮です。
昔は遠くて伊勢まで行くことができない西の地方の方のお参りする神社としても栄え、古くから西のお伊勢さまと呼ばれ人々に親しまれてきました。
外宮↓
内宮↓
テーマ:日記というか、雑記というか… - ジャンル:日記
2018/05/07(月) 18:24:39 |
山口
| トラックバック:0
| コメント:2